喪失の今日を生きている

リン、と響いた電話に、意識が戻った。アクリル板の上から何千回となぞった写真をもう一度見下ろして、迷った末に伏せ、手放した。親指の感覚はない。乾いた涙でからからに干からびた顔の皮膚がひきつれて痛かった。

電話の相手は元教え子だった。

「先生、……あの、ミヤモトです。ミヤモト、ユウダイ。」

「宮本君。わあ。お久しぶり」

「お久しぶりです」

この子を卒業式で見送ったのは何年前だろう。緊張が電話越しに伝わってくる。何を話そうか躊躇っているのがわかる。隠しきれない素直さと、電話だからだろうか、当時より低く聞こえる声に時の流れを感じる。 昨日のことも思い出せないのに、当時の年月まで記憶を遡るのは随分と難しい。五、六年前から、十年以内。私は密かに結論付けて、あとは脳内から更新されていない宮本君の姿を引っ張り出した。

確か背が高かった。後ろから数えた方が早かった気がする。真面目でもないけど不良でもない、女子と話すより数名の男子グループで盛り上がっているような、一般的な男子中学生だった。社会はできるのに他の授業は赤点ぎりぎりだったことも思い出した。補習で配るプリントの採点をする時は、半分の確率で宮本君がいた。もうちょっと努力の範囲を均等にしなさい、って。あれは体育祭前の小テストの結果に、私が漏らした小言だ。彼は口を尖らせて、だってつまんねーんだもん、と子どもみたいに反抗した。実際、子どもだったのだ。これから登っていく階段の一番下に足をかけたばかりの、まだ瑞々しい、柔らかな人格形成真っ只中の、そのくせ口だけは立派な、かわいらしい中学生なのだ。

「先生の名前、ニュースで聞きました。」

懐古は一言で止んだ。現実から過去に飛んでいた一瞬が巻き戻り、目の前を凪いでいく。

「家族の人、亡くなったって…あの、先生も怪我してるって聞いたんですけど、体調ってどうですか。あ、いや、こんな事故で体調いいとかも無いと思うんすけど、気分とか、あの、だいじょうぶですか」

言葉を選んで話してくれているのが、じゅうぶん伝わる。いつの間に階段の上の方まで行ってしまったのだろう。私の知っている彼はもう、彼ではなかった。

「ありがとう。ギブスって重いのねえ。しばらく歩いてなかったから、余計にそう感じるのかも。でも松葉杖のおかげで、近所くらいなら出かけられるようになったのよ。よたよた歩いててちょっと恥ずかしいんだけど、きっとすぐに慣れるわね。松葉杖のプロになったらどうしましょうね、それはそれで、面白そう」

するすると口から出るものは、本当に言葉なのだろうか。思ってもいない、だからといってはじめから用意していたわけでもない嘘が、すべて私の意思だと念を押しながら空気に混ざり、電波に乗って彼へと運ばれていくのを、他人のように眺めていた。眺めることしかできなかった。口が止まらずに最後まで嘘を吐き出した。私はうっすらと笑ってもいるようだった。

「先生、今週末、暇ですか。時間あったら、ええと、俺いま三浦町でバイトしてて、夕方からそっちに移動するんすけど。なんか、気晴らし、じゃなくて、気分転換?……じゃなくて、あの、ちょっと話でもできたらと思って、もちろん用事とかあったら全然アレなんで」

三浦町は私の住んでいる土地だ。彼の担任をしていた頃は別の町に住んでいて、娘の幼稚園のために数年前引っ越してきたのだけれど、きっとニュースで「~市三浦町の○○さん一家」と言われて知っているんだろう。私は事故からテレビも新聞も見られないでいたが、友人や元同僚からかかってくる電話やメールが物語っている。私は、何も見られないのに。