無力な今日を生きている

夢とか目標とかね、意味ないのよ。あなたは言う。そんなこと考えても、考えなくても、寝て起きたら明日って来てしまうのよ、いつもの日常を少しでもここちよくすごしたいと、笑顔を絶やさないように心がけるとするでしょ、例えば娘の幼稚園に迎えに行ったとき、帰りたくないの、おともだちとまだまだ遊びたいの、って全力で拒否されて、その後特売のスーパーに寄ることやパパの帰宅までに食事を作っておくこと、娘が眠くなる前にお風呂に入れないといけない諸々が全部パーになっちゃうことだって、私の心がけ次第でどうにかなることでもないし、最近はじめた慣れない仕事でくったくたに疲れている私のこころを、更にくったくたに疲れているのに私と娘をおもって寄り道もせずにこにこしながら帰ってきたパパに、癒してよ、なんて押し付けられないじゃない。その言い分は確かに分かる、気がした。将来僕に奥さんができ、こどもができたとして、自分ひとりの気分ではどうにもならない日常生活は大変だろうなと想像する。あなたは目の前のアイスコーヒーに視線を落とした。じっとりと濡れた細長いグラスは、ほとんど中身が減っていない。

夢を見ていたと思うの、いまとなってはなにもかも遠くて、娘とパパなんてほんとうにいたのかしらって考えるの。普段はね、まだ、写真を伏せてしまうんだけど、現実がわからなくなったときに持ち上げて、くしゃくしゃの顔で笑っている娘とパパを見て、ああ目元が似てるわ、やっぱりあの人の子ねってまず思って、そして猛烈に辛くなって、必ず泣いてしまうのよ。気付けば写真ばっかり何時間も、ううん、一日中眺めているの。どうしていないの?帰ってこないの?ただいまって言ってくれないの?二人だけで遠くにいっちゃうの?私を置いていくの?おじいちゃんとおばあちゃんになるまで一緒にいようねって言ってたじゃない、この子が結婚するときは絶対おれ泣いてしまうって気の早い話をしてたじゃない、今日は二人のすきなハンバーグを作ろうと思ってたのよ、なんでいないの、なんでいっちゃうの、わたしもつれていって、つらい、かなしいつらいくやしいかなしい。

一度も顔をあげないまま、淡々と吐露される感情を聞いていた。僕は相槌すら打てなかった。今まで学んできた単語の引き出しを片っ端から開けても、かけるにふさわしい言葉などどこにもなかった。泣いてしまうのではと思っていたけれど、あなたは凛として、でも、消えてしまいそうなはかなさでゆっくりと瞬きをして僕を見た。薄まっていくコーヒーの表面には家族が見えていたんだろうか。当たり前の日常が崩れたこのひとは、このあと家に帰ってからひとり涙を流すんだろうか。

今日はありがとう。連絡をくれて、嬉しかった。ちゃんと覚えてるわよ。君は社会だけすんごくできるけど、他のことはからっきしでね。みんなの寄せ書きももちろん取ってあるわ。きっと新聞か、テレビのニュースで名前を見て、思い出してくれたんでしょう。背が伸びたのね。大学楽しんでる?ああ、もうこんな時間。長くなってごめんなさいね。それじゃあ。

またね、とは言われなかった。またね、がこない日を知っているあなたは、車体の下敷きになって複雑骨折した右足をまっしろなギブスに包んで、松葉杖を手繰り寄せた。