蜘蛛の糸が救うのは

お酒を飲みすぎたある晩、ふとした糸口から私は過去を思い出し、途切れない記憶の紐をずるずると引っ張り上げて夫に話した。

もう何度目の、何十回目の話なのだろう。その都度同じことを聞かされる夫の顔色を伺いながらも、もう、火蓋が落ちて止まらなかった。

極度のストレスで退職した会社の話だ。そこに勤める人の、人として有り得ない言動。あの時自分を貶めた人。上司に相談して人物を特定し懲戒解雇されたその人のことを思い出すと、全身の毛穴が逆立つような怒りとやりきれなさを覚える。なぜなら全て解決したと思われたその後、私は会社にてのひらを返され、問題を起こす厄介人として正社員から永久試用社員に降格される等酷い処遇を受けたからだ。あの時。あいつが。あんなことをしなければ。私の成績をやっかみ、数字を書き換え、顧客の信用喪失を引き起こして数か月にわたりそしらぬ顔をし続けた、あいつがいなければ。

怒りと憎しみは昇華されない。手放したふりをしても、今回のような些細なきっかけで頭をもたげ、数倍の威力をもって私の感情を支配していく。飛び火したそれは世間で毒親と呼ばれる母の存在について言及し始める。虐待とネグレクトと金の無心、私の鼻の先で揺れる男性器。大量の蟻が這い、意味不明なきのこが生えた家に住む数人の血のつながらない子どもの一人が、私だった。ここまで記憶の紐を手繰り寄せてしまうまでが、私が過去を話す時のセットだ。 

過去に囚われない思想が知りたい。感情のコントロール。自分の人生を生きる。怒りを手放す。憎しみは自分に返ってくる。ネガティブを手放す十個の実践方法。そんな煽り文句を上品に書き連ねた自己啓発本など何十冊と読み漁った。積極的に人に話して発散する、というやり方は、相手側ににわかに信じてもらえず滲み出る軽蔑と奇異のまなざしが辛すぎて止めてしまった。過去にお付き合いをした人に勇気を出して告白し、翌日に「そんな人間だと思わなかったし、荷が重い」と言われて振られたこともある。私の存在意義。十代の頃から過眠症になった。最低でも27時間以上寝続けないと起き上がれなかった。社会人になってもその傾向は消えず、金曜に寝て日曜の夕方に起きることが十年続いた。現実よりも夢の中にいる方が幸せだった。起きている時も辛いので酒を飲み続けた。シラフでいることが怖かった。こんな感情、きっと、誰にも共感してもらえない。

 

喪失の今日を生きている

リン、と響いた電話に、意識が戻った。アクリル板の上から何千回となぞった写真をもう一度見下ろして、迷った末に伏せ、手放した。親指の感覚はない。乾いた涙でからからに干からびた顔の皮膚がひきつれて痛かった。

電話の相手は元教え子だった。

「先生、……あの、ミヤモトです。ミヤモト、ユウダイ。」

「宮本君。わあ。お久しぶり」

「お久しぶりです」

この子を卒業式で見送ったのは何年前だろう。緊張が電話越しに伝わってくる。何を話そうか躊躇っているのがわかる。隠しきれない素直さと、電話だからだろうか、当時より低く聞こえる声に時の流れを感じる。 昨日のことも思い出せないのに、当時の年月まで記憶を遡るのは随分と難しい。五、六年前から、十年以内。私は密かに結論付けて、あとは脳内から更新されていない宮本君の姿を引っ張り出した。

確か背が高かった。後ろから数えた方が早かった気がする。真面目でもないけど不良でもない、女子と話すより数名の男子グループで盛り上がっているような、一般的な男子中学生だった。社会はできるのに他の授業は赤点ぎりぎりだったことも思い出した。補習で配るプリントの採点をする時は、半分の確率で宮本君がいた。もうちょっと努力の範囲を均等にしなさい、って。あれは体育祭前の小テストの結果に、私が漏らした小言だ。彼は口を尖らせて、だってつまんねーんだもん、と子どもみたいに反抗した。実際、子どもだったのだ。これから登っていく階段の一番下に足をかけたばかりの、まだ瑞々しい、柔らかな人格形成真っ只中の、そのくせ口だけは立派な、かわいらしい中学生なのだ。

「先生の名前、ニュースで聞きました。」

懐古は一言で止んだ。現実から過去に飛んでいた一瞬が巻き戻り、目の前を凪いでいく。

「家族の人、亡くなったって…あの、先生も怪我してるって聞いたんですけど、体調ってどうですか。あ、いや、こんな事故で体調いいとかも無いと思うんすけど、気分とか、あの、だいじょうぶですか」

言葉を選んで話してくれているのが、じゅうぶん伝わる。いつの間に階段の上の方まで行ってしまったのだろう。私の知っている彼はもう、彼ではなかった。

「ありがとう。ギブスって重いのねえ。しばらく歩いてなかったから、余計にそう感じるのかも。でも松葉杖のおかげで、近所くらいなら出かけられるようになったのよ。よたよた歩いててちょっと恥ずかしいんだけど、きっとすぐに慣れるわね。松葉杖のプロになったらどうしましょうね、それはそれで、面白そう」

するすると口から出るものは、本当に言葉なのだろうか。思ってもいない、だからといってはじめから用意していたわけでもない嘘が、すべて私の意思だと念を押しながら空気に混ざり、電波に乗って彼へと運ばれていくのを、他人のように眺めていた。眺めることしかできなかった。口が止まらずに最後まで嘘を吐き出した。私はうっすらと笑ってもいるようだった。

「先生、今週末、暇ですか。時間あったら、ええと、俺いま三浦町でバイトしてて、夕方からそっちに移動するんすけど。なんか、気晴らし、じゃなくて、気分転換?……じゃなくて、あの、ちょっと話でもできたらと思って、もちろん用事とかあったら全然アレなんで」

三浦町は私の住んでいる土地だ。彼の担任をしていた頃は別の町に住んでいて、娘の幼稚園のために数年前引っ越してきたのだけれど、きっとニュースで「~市三浦町の○○さん一家」と言われて知っているんだろう。私は事故からテレビも新聞も見られないでいたが、友人や元同僚からかかってくる電話やメールが物語っている。私は、何も見られないのに。

 

 

 

 

 

屋上友愛

「ほらあ。お似合いですねって、店員が。言ってたじゃん。さっき入ったクレープの。おいしかったよねえ。いちごとばなな。あたしクリームよりチョコ派なんだあ。あー違う。なんだっけ?そうそう。やっぱそうだよ。なんにもおかしいとこないんだもん。並んで歩いてもおなじくらい、あたしたち。レベル。そういう見た目?雰囲気?とか。だからいいじゃん。これからもなかよくしよ。あたし、あんたの歩幅といっしょだし。手つないでてもちょうどいいでしょ。結構似たようなこと考えてるでしょ。今も、天気いいとか、風がきもちいいとか。ふたりだとそれなりにたのしいとか。だからねえ。あのねえ。あたししにたいの。手つないで、ここからせーので、一緒にとぼうよ。」

無力な今日を生きている

夢とか目標とかね、意味ないのよ。あなたは言う。そんなこと考えても、考えなくても、寝て起きたら明日って来てしまうのよ、いつもの日常を少しでもここちよくすごしたいと、笑顔を絶やさないように心がけるとするでしょ、例えば娘の幼稚園に迎えに行ったとき、帰りたくないの、おともだちとまだまだ遊びたいの、って全力で拒否されて、その後特売のスーパーに寄ることやパパの帰宅までに食事を作っておくこと、娘が眠くなる前にお風呂に入れないといけない諸々が全部パーになっちゃうことだって、私の心がけ次第でどうにかなることでもないし、最近はじめた慣れない仕事でくったくたに疲れている私のこころを、更にくったくたに疲れているのに私と娘をおもって寄り道もせずにこにこしながら帰ってきたパパに、癒してよ、なんて押し付けられないじゃない。その言い分は確かに分かる、気がした。将来僕に奥さんができ、こどもができたとして、自分ひとりの気分ではどうにもならない日常生活は大変だろうなと想像する。あなたは目の前のアイスコーヒーに視線を落とした。じっとりと濡れた細長いグラスは、ほとんど中身が減っていない。

夢を見ていたと思うの、いまとなってはなにもかも遠くて、娘とパパなんてほんとうにいたのかしらって考えるの。普段はね、まだ、写真を伏せてしまうんだけど、現実がわからなくなったときに持ち上げて、くしゃくしゃの顔で笑っている娘とパパを見て、ああ目元が似てるわ、やっぱりあの人の子ねってまず思って、そして猛烈に辛くなって、必ず泣いてしまうのよ。気付けば写真ばっかり何時間も、ううん、一日中眺めているの。どうしていないの?帰ってこないの?ただいまって言ってくれないの?二人だけで遠くにいっちゃうの?私を置いていくの?おじいちゃんとおばあちゃんになるまで一緒にいようねって言ってたじゃない、この子が結婚するときは絶対おれ泣いてしまうって気の早い話をしてたじゃない、今日は二人のすきなハンバーグを作ろうと思ってたのよ、なんでいないの、なんでいっちゃうの、わたしもつれていって、つらい、かなしいつらいくやしいかなしい。

一度も顔をあげないまま、淡々と吐露される感情を聞いていた。僕は相槌すら打てなかった。今まで学んできた単語の引き出しを片っ端から開けても、かけるにふさわしい言葉などどこにもなかった。泣いてしまうのではと思っていたけれど、あなたは凛として、でも、消えてしまいそうなはかなさでゆっくりと瞬きをして僕を見た。薄まっていくコーヒーの表面には家族が見えていたんだろうか。当たり前の日常が崩れたこのひとは、このあと家に帰ってからひとり涙を流すんだろうか。

今日はありがとう。連絡をくれて、嬉しかった。ちゃんと覚えてるわよ。君は社会だけすんごくできるけど、他のことはからっきしでね。みんなの寄せ書きももちろん取ってあるわ。きっと新聞か、テレビのニュースで名前を見て、思い出してくれたんでしょう。背が伸びたのね。大学楽しんでる?ああ、もうこんな時間。長くなってごめんなさいね。それじゃあ。

またね、とは言われなかった。またね、がこない日を知っているあなたは、車体の下敷きになって複雑骨折した右足をまっしろなギブスに包んで、松葉杖を手繰り寄せた。

白紙予備軍

予定があるとその通りに行動しなくてはならない気がして、できれば真っ白な未来だけがわたしの将来にあるといいのに、と心から思っている。今任されている仕事の予定や、知人と会う週末の予定。たまには顔を見せてと半ば強制された実家へ赴く予定。次のプロジェクトのプレゼン資料作成。来月消えてしまう有給について、消化予定日を早く提出しろという無言の圧力。先週はがきで届いた同窓会の参加不参加の返答。数少ない友人から有難く声のかかった、映画鑑賞の日付の候補のライン返信。直近だと、帰宅した後、彼氏への夕食の献立に悩む時間。それら全てがわたしの自由な歩幅や行先を制限してくるので、おおきなものからちいさなものまで、ある日突然まとめて投げ捨ててしまいたくなるのだけれど、世の中を粛々と生きているにんげんはそんな気持ちにはならないらしい。雁字搦めを「ひとや社会とのかかわり」と言い換えるらしい。ものはいいようだと思う。わたしは普段なんともない顔をして「ひとや社会とのかかわり」をこなす一般人に紛れているけれど、こんな日は、こんなにぼろぼろに崩れ落ちてしまいそうな日は、わずらわしい、わずらわしい、わずらわしい、電車のホームの後ろを睨みつけながら、自分の将来から明日ごと消した白紙の未来におもいをはせるのだ。

青鬼の差し色

吐き出した言葉が、相手に届く前に一度だけこちらを振り返って、ほんとうにこれでよかったの、と問いかけてくる。その怪訝な、怪奇な雰囲気にはっと正気を取り戻して口元を抑えようとするのだけれど、もう遅い。指先が動くより先に空気に溶けて鼓膜へ消えた彼らをもう呼び戻せない。

 

案の定、さきこはもともと大きな瞳を更に見開いたあと、ふるりとかぶりをふって唇を噛んだ。なんてかしこいんだろうと、わたしはこの状況で感心する。だってわたしの二の舞にならないようにしてるんでしょう。とっさに。無意識に。相手を思いやれるなんてえらいねさきこ。それとも同じ土俵に立ちたくないからなの。わたしはあなたのゆがんだ表情を呆けた顔で見つめている自覚がある。こんなにきれいでこんなにやさしいあなたの、丁寧にひかれたコーラルピンクの口紅の奥で、わたしを罵倒するような言葉たちが出口を求めて渦巻いているのかと思うと、しょうじき高揚する。

梟の羽

わたしはずっと、基本的にかなしい生き物として生きてきた。
慰めも励ましも共感も、そのときは有難く受け取ることができるのだけれど、相手とさようならをして一分後のわたしの目は大体しんでいる。
掻き消されたはずのもやもやがあっという間に一面のこころを覆って、後ろからするりと目隠しされる感覚を、どうやって説明したらいいのだろう。
立ち上がっていたはずの自分は、灰色から黒にかけてのグラデーションがかった景色の中で、すぐに方向性を見失ってしまう。躓かないように、居場所を確かめるように、そっと膝を抱えてそこに座り込む。そうして周りを見渡して、灰色しか映らなくて、また光が見えなくなったことを実感する。
やみくもに動いてはいけないことを知っている。そうしないと誰かにぶつかって舌打ちされたり、暴言を吐かれたりする。誰かが足元をひっかけてきて転ぶことを学んでいる。ときには石や壁だったりするのだけれど、灰色の視界ではうまく見えない。誰かはいつもわからず突然起こる。だからこわい。
被害妄想だと笑われても、これまでのちっぽけな人生の経験が確信させてしまう。呪いのようにこびりついて離れない。わたしはいつもかなしい。そしてさみしい。ひとりのときに色づく世界をみてみたい。