蜘蛛の糸が救うのは

お酒を飲みすぎたある晩、ふとした糸口から私は過去を思い出し、途切れない記憶の紐をずるずると引っ張り上げて夫に話した。 もう何度目の、何十回目の話なのだろう。その都度同じことを聞かされる夫の顔色を伺いながらも、もう、火蓋が落ちて止まらなかった…

喪失の今日を生きている

リン、と響いた電話に、意識が戻った。アクリル板の上から何千回となぞった写真をもう一度見下ろして、迷った末に伏せ、手放した。親指の感覚はない。乾いた涙でからからに干からびた顔の皮膚がひきつれて痛かった。 電話の相手は元教え子だった。 「先生、……

屋上友愛

「ほらあ。お似合いですねって、店員が。言ってたじゃん。さっき入ったクレープの。おいしかったよねえ。いちごとばなな。あたしクリームよりチョコ派なんだあ。あー違う。なんだっけ?そうそう。やっぱそうだよ。なんにもおかしいとこないんだもん。並んで…

無力な今日を生きている

夢とか目標とかね、意味ないのよ。あなたは言う。そんなこと考えても、考えなくても、寝て起きたら明日って来てしまうのよ、いつもの日常を少しでもここちよくすごしたいと、笑顔を絶やさないように心がけるとするでしょ、例えば娘の幼稚園に迎えに行ったと…

白紙予備軍

予定があるとその通りに行動しなくてはならない気がして、できれば真っ白な未来だけがわたしの将来にあるといいのに、と心から思っている。今任されている仕事の予定や、知人と会う週末の予定。たまには顔を見せてと半ば強制された実家へ赴く予定。次のプロ…

青鬼の差し色

吐き出した言葉が、相手に届く前に一度だけこちらを振り返って、ほんとうにこれでよかったの、と問いかけてくる。その怪訝な、怪奇な雰囲気にはっと正気を取り戻して口元を抑えようとするのだけれど、もう遅い。指先が動くより先に空気に溶けて鼓膜へ消えた…

梟の羽

わたしはずっと、基本的にかなしい生き物として生きてきた。 慰めも励ましも共感も、そのときは有難く受け取ることができるのだけれど、相手とさようならをして一分後のわたしの目は大体しんでいる。掻き消されたはずのもやもやがあっという間に一面のこころ…

手を離された風船の話

さようなら。と打った時、胸が軋む音がした、ような気がした。 一緒に幸せになれなくてごめんね。今までありがとう。さようなら。 定型文三行を読み返して、誤字がないことだけを確認して送信した。煙草に火をつける。天井を見上げる。自分の言葉を自分の口…

大アルカナ0番

アルバイト先にひとつ年下の子がいて、当時はよく一緒につるんでいた。他は年配の女性ばかりだったし、一番近くても十五歳は離れているものだから、気兼ねなくため口で話したり愚痴を言い合ったりする関係になるのも、自然の流れだったと思う。彼女は金髪で…

魚は天の川を泳ぐ

心臓と皮膚が離れすぎているからいけないのだ。覇気のない店員の挨拶に見送られてコンビニを出た。途端に熱帯夜特有の湿度がまとわりついて、すぐ額に汗が滲んだ気がする。ビニール袋からアイスを取り出す彼女を眺める。ひとつを半分に割るタイプのアイスの…

金木犀

「言葉はしぬほど溢れてるのに今の自分に相応で適確なものがひとつも見つからない。なんて吐き捨てるこの言葉すらどこかの誰かが書いた文章で何度も見たことがあるし、全然目新しくもクソもないでしょ。語尾を変えて配置を変えて表現を変えて捏ね繰り回して…

ポテトサラダの証明

キーボードを打ち続ける作業に疲れて、こっそり背伸びをしてみる。まわりの人にばれないように、悪いことをしているわけじゃないのに、わたしだけサボっていると思われないように。視界に入る先輩たちはそれぞれディスプレイを見つめている。時折せわしなく…