手を離された風船の話

さようなら。と打った時、胸が軋む音がした、ような気がした。

一緒に幸せになれなくてごめんね。
今までありがとう。
さようなら。

定型文三行を読み返して、誤字がないことだけを確認して送信した。
煙草に火をつける。
天井を見上げる。
自分の言葉を自分の口から吐き出せない自分。
あの人は網膜に焼付かないし、妄想で形作られたりしない。
だから、今後会わない人の声色も口癖も仕草のひとつも、なにも思い出にはかなわないのだ。

さようならを口にすることは憚られるのに、文字にするとすんなりと伝えられるのは
あの人を本当に想っていないからなのか、想っているからこそなのか、
じりじりと焼けて消えていく煙草の先しか見ていないわたしには
痛みの度合いも周りも現実もわからないでいる。

大アルカナ0番

アルバイト先にひとつ年下の子がいて、当時はよく一緒につるんでいた。他は年配の女性ばかりだったし、一番近くても十五歳は離れているものだから、気兼ねなくため口で話したり愚痴を言い合ったりする関係になるのも、自然の流れだったと思う。
彼女は金髪でつけまつげを上下に装着した、いわゆるギャルだった。対する私は暗めの茶髪に薄化粧で、一緒にいるとギャップが面白く、互いにダメ出ししてからかいあっていたことを覚えている。
シフトが被った時は、喫煙所で煙草を吸いながら彼女の恋人の話を聞くのが恒例だった。基本的に喋るのは彼女で、私は聞き役だ。これまた随分年上の男性とのあんなことやこんなこと。ギャンブル、借金、未就業、元奥さんの話、連絡が取れないからプリペイド携帯を持たせている件、飛び交う罵声の内容、彼氏の車の中に転がっているビールの空き瓶の数々、そこで行うセックス。彼女はとても話し方が上手だった。彼女が喋ると全てネタになり、笑い話に変わってしまうので、スーツで武装したお堅い今の職場でも、彼女は浮くどころか皆から愛されていた。だるそうに、時には捲くし立てるように話す言葉の数々は、手垢のついた携帯小説の一節のようなのに、一番最後の話題ではうっとりとした声色に変わる。

彼女には行為に及ぶ時だけ会う男性がいた。こちらから連絡はできず、呼び出された時に会って、ホテルで数時間過ごすらしい。仕事が終わっていつも通り二人で煙草を吸っていたら、これから会いに行くことを目を輝かせて伝えてきた。口角も緩みっぱなしだ。こんな報告も、生々しい事後報告も恒例行事の一つだった。
「セフレ作りなよ」と唐突に彼女が言う。
「つくらないよ」
「ペットがいるもんね」
彼女の恋人も随分年上だったけれど、こちらのペットは更に年上だった。私はそのペットから別の名前で呼ばれていた。酷いことをされたい男と人嫌いな女王様。彼女は、自分から酷いことなんてできないらしい。私にも呼び出された時だけ会う献身さはない。

お互いの環境や考え方を否定したことはなかった。私は彼女の話をいつも面白おかしく聞いていたし、彼女も私の話を面白がってあれこれと聞きたがった。特別隠すことでもないというスタンスもお互いさまで、聞かれた分だけ話をした。ふろしきはどんどん広がって隠し事もなくなった。いつだったか、人でない生き物が目の前で素っ裸でダンスしている話をしたら、それ楽しいの?と訊ねられたので、何も楽しくないよ。と答えたような気がする。彼女と私は、ただ愚者で純粋で無邪気だという共通点で繋がっていた。若い私達は同調も共鳴もせず笑うしかなかった。仕事終わりに煙草を吸っている間だけは。

 

 

魚は天の川を泳ぐ

心臓と皮膚が離れすぎているからいけないのだ。
覇気のない店員の挨拶に見送られてコンビニを出た。途端に熱帯夜特有の湿度がまとわりついて、すぐ額に汗が滲んだ気がする。ビニール袋からアイスを取り出す彼女を眺める。ひとつを半分に割るタイプのアイスのパッケージを開けると、彼女は迷いなく折り目を割った。ぱきん。そして迷いなく片方を差し出してきたので、わたしも迷いなく受け取った。
あついね。うん、あつい。倒れそうだよ。やめてよ。冗談だって。
わたしの家に戻る足取りは少し軽い。部屋にいるとき、暑くてお互いうだっていて、アイスを買いに行こうという流れになったのだ。灼熱の行き道は後悔しかけたけれど、喉をひんやり通っていく液体の冷たさが火照った体に心地よく、一時的だとしても今は気分がよかった。彼女もこころなしか声が弾んでいる。
明日は晴れるかな。みて、星、きれい。そうだね。
空を指さした彼女につられて顔を上げると、予想以上にたくさんの星がまたたいている。すごいねえ。彼女がひそやかにつぶやく。上を向いた状態では歩きづらいからか、わたしたちは自然と手を繋いでいた。

片手にアイス、片手に掌。冷たいのと熱いの。彼女の体温は高いけれど、離したくない熱だと思った。わたしはもうずっと前からそう思っていた。わたしたちは一緒にいることが当たり前で、なのに一緒にいない時間も当たり前に過ごしていて、会って他愛ない話をしている時間がとても大切だなんて彼女が知ったら、笑われることも知っていた。あなたは心配性ね。彼女はきっと目を細めて言うだろう。大丈夫、わたしたちつきあっているんだから。

わたしはその言葉を聞くたび安心して、同時に、不安が倍になって押し寄せてくるので、いつもどっちつかずの顔で曖昧に笑うしかなかった。なぜならそれが理由になるなら、理由がなくなったとき、こんな時間もなくなることを認めなければいけない。おつきあいという免罪符にすがることのできないわたしは、一瞬一瞬の彼女の姿かたち、表情、服装、髪型、声の抑揚、仕草、立ち振る舞いをいかに目に焼き付けるかが課題だった。離れている間はそれらのピースをあたまの中で組み合わせて彼女をつくった。てのひらの中にいつでもいるという安堵を望むほど、ただよう彼女がどこかへ行ってしまう喪失感を生んでいた。いま掌を繋いでいる皮膚の隔たりがあるせいだというなら、夜空を見上げている彼女の横顔を見つめたままのわたしの、すっかり溶けて底に溜まる乳白色のアイスみたいにふたり溶けてしまいたかった。

いつか彼女はわたしから離れることを知っている。ありがとう。さようなら。しあわせになってね。ぱきん。迷いなく手を離して、振り返らない後ろ姿に日常が崩れる音を聞いたとき、今日を思い出すとおもう。胸の内側の熱が、この指先にともればいい。

 

 

金木犀

「言葉はしぬほど溢れてるのに今の自分に相応で適確なものがひとつも見つからない。なんて吐き捨てるこの言葉すらどこかの誰かが書いた文章で何度も見たことがあるし、全然目新しくもクソもないでしょ。語尾を変えて配置を変えて表現を変えて捏ね繰り回して混ぜるなら、いっそ全部イコールでいいんじゃないかと思うわけ。赤と青が白でしたって言ってよ、そしたら納得してやるから。わたしが確かにこう思ってることは別の人の感情じゃないのに、似たようなオツムの出来のおかげで多数の中に入ってしまって、それに凄く身震いするけど覆せる語彙もない場合はどうしたらいいの。あなたに抱いてるアレを吐くソレが正しく折り目を付けないからわたし、酷く難しくて仕方ないのよ。」

ポテトサラダの証明

キーボードを打ち続ける作業に疲れて、こっそり背伸びをしてみる。まわりの人にばれないように、悪いことをしているわけじゃないのに、わたしだけサボっていると思われないように。視界に入る先輩たちはそれぞれディスプレイを見つめている。時折せわしなく指を動かしている。集中しているのか暇を持て余しているのかは、画面を覗き込んでみないとわからない。わかるのは、わたしが背伸びをしても、誰ひとり気にもしないということだ。
同じ空間にいる人たちでさえこうなのだから、わたしの存在といえば、今日帰り道に寄るつもりのデパ地下のお惣菜売り場も、給料日だけ訪れると決めている珈琲のおいしいカフェも、帰宅途中によくすれ違う犬をつれたご老人も、朝のバス停でいつも日傘をさしている黒髪の女性も、だれも、だれも、気にもしないくらい、ちっぽけだった。痺れた腕を小さく振って、キーボードの定位置に指を戻すと、胸の奥の方がちかちかした。わたしはもう随分と、誰の目にも映っていない気分になった。肌色が灰色になって、輪郭が空気に滲んで、よく目を凝らして見てくれる人がいなければ、このまますうっと「いないひと」になってしまう気がした。存在しているのに存在していない人間。もちろんそれは空想で、非現実的だ。わたしは会社に雇われているし、狭いアパートの一室を契約しているし、お風呂あがりにたまに電話をかける友人もいる。でも現実は、非現実的な空想を打ち破るだけの説得力をもってくれなかった。
お惣菜を買うときに笑顔をみせる店員も、わたしの後に五人も接客すれば、わたしのことを忘れるだろう。それでもいいから、今は無性に、誰かにわらいかけてほしい。